全ては1974年ここから始まった (16)

塩次伸二さんの東京ライブは必ずと言ってよいほど通っていたのだが、そこである女性と出会う。
2007年11月中野ブライト・ブラウン

当日の昼、二子玉川の河原でB.B.Qをやっていて、その勢いでブライト・ブラウンへ。
塩次さん・小堀さん・Leoさんのライブだったのかな・・・。
そこそこお客さんも入っていたんだと思う。
赤いニットを着た女性のテーブルしか空いてなかったんじゃないかな。

でね、その赤いニットの女性は後のRADATAPのあっちゃんだ!

自分:「ここ、空いてますか?」
あっちゃん:「空いてます。どうぞ」

みたいな感じだったかな。
昼間B.B.Qだったから結構ヘロヘロだった。
しばらくしてLeoさんが自分等2人を交互に指さして「2人知り合いなんじゃないの?伸ちゃんのおっかけ〜」うーん、こんな感じだったかな。
後で話して分かったんだが、これまでにもあっちゃんとは同じ会場で塩次さんのライブを観ていたようだが、記憶にはなかった。
これはお互いそうみたいだった(笑)。
この頃は携帯電話だと思うが、メルアドを交換したんだ。
メールのやり取りはほとんど塩次さんの話題だったな〜。
こんなライブの音源持ってるとか、交換しようとか。

後にRADATAPを結成することになる。
その結成までにはもうちょっと時間が必要だった。
あっちゃんは、知り合ってからライブがあれば必ず来てくれてた。

二俣川サムデイ。K.Tが花束を持ってるが、誕生日だったのかな・・・。 左、ドラム修ちゃん・あっちゃん・自分。3人で一緒に帰ったっけね。
ゲストで歌ってもらった。 2009年池尻大橋CHAD

その後、塩次さんのライブに2人で何度か一緒に行って、あっちゃんはとても塩次さんと親しくて。
紹介してくれたんだ・・・あの憧れの塩次さんに自分のことを紹介してくれたんだよ。

その後、ライブ会場でお会いすると塩次さんは「おおお!◎×△はん、呑んだはりますな」なんてね、いつも声かけてくれて。
苦節35年・・・(笑)
その後、祐天寺のFJ’sでウエストロードの話やら、最初の赤い335の話やら塩次さんとできたんだ。
FJ’sで塩次さんがワインを注いでくれようとしたら、もう空でさ(笑)
もう1本追加したっけね。

ところが・・・塩次さんは2008年10月19日ツアー中の栃木県佐野で急逝。
享年57歳・・・もう自分はその歳も越えちゃったな。
この日の深夜、やたら携帯がブンブン鳴ってたが、酔っ払ってたから早めに寝たんだ。
翌朝、凄い数の着信が。
小町君からの電話で塩次さんが亡くなったのを知った・・・。
信じられない・・・名前も覚えてくれて、これから色々話したいこともあったのに。

あっちゃんは佐野の葬儀会場に向かったんだ。
10月なのに変に暑い日だったのを覚えてる。
この日の通夜は色んな意味で凄かったらしい・・・。
その告別式の帰りのこと・・・あっちゃんは塩次さんが東京に来た時のローディだったM君の車で東京に向かった。
ところがなんと!東北道でとんでもない車を見つける。
当時の携帯写真だから解像度が低いが、この車のナンバーが「4029」だ・・・4029し・お・つ・ぐ。
実際に塩次さんは4029というバンドも演っていた。
これ、偶然なんだろうけど・・・そうは思えないよ。
「おまえら!ずっと俺の後をしっかりついてこいよ!」って・・・。
思い出すと辛いな。
塩次さんは亡くなってしまったけど、彼の残してくれた人の繋がりは本当に今でも凄いんだ。

でね、あっちゃんもバンドメンバーを探していたんだ。
取り合えず、ピアノの中島とあっちゃんと3人でスタジオに入ったんだよな。
中島が「この曲を演るならバンドで演りたいですよね」と言ったのがラヴシック・ブルーズだ。
元々はカントリーの曲なのだろうが、3人で演ってたのはエタ・ジェイムスのバージョンだ。
中島のその一言で、あっちゃんはローラー・コースターのドラムでバンマスの山崎よしきさんを招聘。
自分は小町君を招聘。

恐らく2009年の年末近くだったのか、始めてメンバー全員で渋谷のスタジオに入ることになった。
でね、山崎さんはね、ちょっと遅れてスタジオに入ってきたんだ。
もう、緊張した・・・だってさ、70年代から憧れてきたドラムの山崎よしきさんと一緒に演奏できるんだよ。

そして、年が明けてRADATAPのデビュー初ライブが決った。
2010年1月23日のことだ。

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